右耳がなかった少年

誰かの救いになれれば光栄です

手術の前日

そして二年がたち、私が小学六年生になりました。それまでに、今まで行ってきた簡単な検査を何回かしただけで、特別な何かというのはありませんでした。

手術一日前に私は入院しました。手術後は一週間入院する必要があるといわれました。学校を休んでの入院で、なぜか少しワクワクしている自分と、不安で仕方がない自分がいました。それを見かねた看護師さんが昼の残りのカレーを特別に食べさせてくれたのを覚えています、とてもおいしかったのを今でもよく覚えています。

手術内容としては、三段階にあってそれを一年をかけてやっていくものでした。

次回に私が実際の体験をもとに一つずつお話していけたらとおもいます。

決意

私は悩んだ末に右耳形成手術を行うことを決意しました。当時は、明確な理由は答えられませんでした。しかし、右耳がないよマスクを付けられなかったり、メガネをかけられない。更には、今後ずっと右耳に視線が来ているように思ってしまうのではないかといった不安に駆られていました。そういったものから解放されたかったからこの選択に至りました。

手術をすると決まってからは、病院での診察は様子観察だけではなく、採決やアレルギー検査など色々行われました。今まで年に一年だった通院も一か月に一回など頻繁にするようになりました。

そして、お医者さんからはこう言われました。

「検査お疲れ様です!手術は君の体がもう少し成長してからすることになります。

二年後の春から一年通して行う予定です。」

こう説明されました。理由としては、体が成長する前に手術を行ってしまうと両耳のサイズに違和感が生じるからだそうです。又、体への負担も考慮しての期間だったのです。

手術についての具体的な説明はまた今度してくれると言ってくれました。私が特にすることはなく、あと二年後の手術に不安と期待を抱いて生活を送りました。

右耳って作れたんです。

私は生まれたときから形成外科に一年に一回のペースで通っていました。耳に様子を観察し、記録をとり、耳の形成手術の資料にするからです。しかし、当時は幼少期だったこともあり、なぜ病院に行っているかわかっていませんでした。病院の一階にパン屋があったので、それが私の目的でした(笑)。

母が耳の形成手術について詳しく教えてくれました。

簡単に言うと、体一部から骨と肉を耳に移植して、耳の形を作るという物でした。そうすることマスク、メガネの装着が可能になります。しかし、肝心の聴力が手に入るという子のではありませんでした。これを知って、少し嬉しく、少し悲しく、少し恐怖心を覚えました。

私は右耳がなく、マスクがつけられませんでした。そのため、学校の給食当番や風邪の時には母が作ってくれたゴムを足したマスクを使っていました。正直すぐずれたりして、ストレスが溜まってしまう物でした。耳を作ることでそれが改善されるというのは嬉しいことです。

右耳の聴力がないと何が問題なのかというと、音が鳴った方向がわからないということです。友達が遠くから自分を呼んでも自分は相手がどこにいるかはわかりません。これは学校のコミュニケーションをとる際に苦労をしていました。聴力を得るには別でリスクの大きい手術を受ける必要がありました。そのため、少し悲しくなりました。

当時小学生だった私にとっては移植なんてテレビだけでしか起こりえないものでした。しかし、それが急に自分の前に選択肢として現れたのです。ゆえに恐怖心を覚えてしまいました。

私はとても悩みました。今考えると、小学生には大変な選択にだったと私でも思います。

「どうしよう」

そんなことをずっと考えながら一週間がたちました。

右耳がないだけ

初めまして。私は名前の通り、右耳を持たないまま生まれてきました。正確に言えば、大きさは親指くらいしかなく、穴もない肉塊が生えていました。このことに、親は自分を責めて,泣いていたそうです。子供が生まれることは本来めでたいことであるにも関わらずにです。

症名は小耳症(しょうじしょう)と呼ばれるものでした。耳としての機能、聴覚はほぼなく音のすべてはすべて左耳を通して私に届いていました。しかし、それは私の健康に被害を及ぼすことはなく元気に成長していきました。他人と大きな人生としてのハンデがなく、友達と楽しく遊べていることもあり、そのころは「右耳がないだけ」と幼少期は思っていました。

そんな私の心境に変化が訪れたのは小学四年生でした。自分の耳を他人に見られるのが嫌と思うようになり、毎日フードをかぶって学校生活を送るようになりました。そんな私に母はいち早く気づき私に声をかけてくれました。

「耳を見られるのが恥ずかしいの?」

これを機に、小学生の私に今後の人生に関わってくる選択を迫られていくのです。